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『性の授業 死の授業』 ~金森俊朗・村井淳志~ [金森俊朗]

出産間近の母親と末期ガン患者を小学三・四年生の教室に迎えて―
「性」の教育を真正面からとらえようとすればするほど、「死」のことを考えざるをえなくなる。
「死」を切り離した「いのちの授業」はありえないのではないか・・・・・


性の授業 死の授業―輝く命との出会いが子どもを変えた

性の授業 死の授業―輝く命との出会いが子どもを変えた

  • 作者: 金森 俊朗
  • 出版社/メーカー: 教育史料出版会
  • 発売日: 1996/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



<著者のご紹介>
 金森 俊朗(かなもり としろう)
 1946年、石川県鹿島郡中島町河崎に生まれる。
 金沢大学教育学部卒業。 在学中、金大作文の会で生活綴方教育、生活教育を学び、
 北信越教育系学生ゼミナールの中央事務局長を務める。
 市内8つの小学校を経て、07年3月に退職。
 いしかわ県民教育文化センター所長、日本生活教育連盟会員
 著 書 「太陽の学校」 「町にとびだせ探偵団」 「いのちの教科書」 「希望の教室」

 村井 淳志(むらい あつし)
 1958年生まれ、名古屋市出身。
 東京都立大学文学部卒業。現在、金沢大学教育学部教授。
 著 書 「学力から意味へ」 「歴史認識と授業改革」 「「いのち」を食べる私たち」
      「脚本家・橋本忍の世界」 「勘定奉行 萩原重秀の生涯」



<この本との出会い>
 金森さんの本は「希望の教室」「子どもの力は学び合ってこそ育つ」に続き3冊目です。
 以前の記事はこちらへ → カテゴリー金森俊朗へ





<本文からご紹介>

 はじめに

 この本は、金沢の公立小学校の教師・金森俊朗が、二年間にわたって実践した性と死の授業の
 記録である。
 タイトルを見て、「どうして『性』と『死』がならんでるの?」と疑問に思われた方もいるかもしれない、
 しかし、性の授業、つまり性教育と、死の授業、いわば死の教育(デス・エデュケーション)が実は
 きわめて密接な関係があるということは、少し考えればはっきりするのではないか。
 性は生(いのち)の発端であり、死はその終焉である。両者は対極に位置して、生の流れを明瞭に
 区切っている。私たちがいま、当たり前のように生きている生が当たり前でも自明でもないことを、
 性と死は生の両端にあって告げ知らされている。性と死は両端から生を挟みつけ、人々に生の意味を
 考えさせずにはおかない。
 だから、性と死が大事なテーマであることを否定する教師はいない。子どもたちの性行動が劇的に
 拡大し低年齢化してきていることに、なんらかの動揺を感じない教師・大人はいないだろう。
 子どもが自他の命に加える暴力に戦慄を感じない者もいないだろう。しかも往々にして対処療法は
 無力であり、そのことは当事者たちもよくわかっているはずなのだ。
 ところが、性と死が実際の教育現場で取り上げられることはまれである。「死」はとくにそうである。
 どうしてなのだろうか。
 「子どもには難しすぎる」こんな声がすぐに聞こえてきそうだ。本当にそうだろうか。子どもではなく、
 教師にとって難しいだけではないのか。子どもたちはむしろ、性について死について切実に
 知りたがっているのではないか。
 確かに教師にとっては難しいし、教師だけのちからで性や死を教えようとしても空回りになりがちで
 ある。場合によっては説教臭くもなってしまう。だから金森は、性の当事者である妊婦さん、
 死の当事者である末期ガン患者を教室に招くという方法を選んだ。そういう意味ではこの授業は、
 周到に準備されたものではあるが、柔軟な姿勢さえあればまねのできないものではない。
 むしろこのような授業が日本中で簇生することを願って、この実践記録を送り出したい。





 この本は是非ともじっくり読んで欲しいですね・・・おそらく、タイトルと中身から普通に感じることは、
 性の授業として、妊婦さんに話をしてもらう、死の授業として末期ガン患者さんに授業をしてもらう。
 みたいな単純な内容に受け止められがちでしたが、実はとても奥が深いんですよね。
 それらを行うための準備が大切なんですね。金森学級はそれらの性と死の授業を受け止めれるような
 心に耕されていたこと。そこがとても大切だと思います。また、金森先生は生徒の両親ともとてもよく
 コミュニケーションをとっており、それもこの授業を開催する後押しになっていたのではないかと思います。
 私も後輩等とデス・エデュケーションの話をしたことがありますが、やはり、きちんと心が耕し切れて
 いなかったので、いまいちな反応でした。デス・エデュケーションはとても大切なことだと思うのですが、
 やはり教育現場では取り入れてなく、それでいて社会人になってもそれらを学ぶ場がないと思います。
 きちんとした死の教育がされぬまま、大人になり社会人となってしまっているので、ふとしたきっかけで
 死の事を考えその思いに押しつぶされてしまうのではないでしょうか。本文のはじめにも書かれて
 おりますが、性と死を考えることが生きるということであり、性だけではだめで、合わせて死を考えることで
 初めて生きるということの意味を知るということなんですよね。死の教育といっても単純なことで、
 みなさん小さい頃に自分が死んだらどうしようとか、親の死についてふと考え、漠然な恐怖感に陥った
 ことがありませんか? そんな時きちんと、先生や両親と死について話す機会があれば、その漠然とした
 死の恐怖もやわらげることができたのかもしれません。それが漠然とした恐怖感のまま残ってしまい、
 きちんと理解しないまま大人になった時に問題が起きるのではないでしょうか。
 やはり出来るだけ幼いうちに、ある程度の性の教育、死の教育を行うことはとても大切なことなのでは
 ないかと改めて思いました。このある程度ってのが難しいのかもしれませんけど・・・





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