『君たちはどう生きるか』 ~吉野源三郎~ [吉野源三郎]
著者がコペル君の精神的成長に託して語り伝えようとしたものは何か。
それは、人生をいかに生くべきかと問うとき、常にその問いが社会学的認識とは何かという問題と
切り離すことなく問わなければならぬ、というメッセージであった。
著者の没後追悼の意をこめて書かれた「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」を付載。
<著者のご紹介>
吉野源三郎(よしの げんざぶろう)
1899年東京都出身。父は株式取引所仲買人であった。
1912年、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。
1917年、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。
1918年、旧制第一高等学校に入学。
1922年、2留のすえ第一高等学校を卒業し、東京帝国大学経済学部に入学。
思索の中で哲学への思いが高じて文学部哲学科に転部した。
1925年、26歳で東京帝国大学文学部哲学科を卒業。思い立って陸軍に入隊する。
除隊後の1927年、東京大学図書館に就職。このころから政治に関心を持ち、
社会主義系の団体の事務所に出入りするようになる。
1931年に治安維持法事件で逮捕され、実際は違法行為などは行っていなかったが、
このとき抱いた軍国主義への不信感が、後年の反戦活動、理想主義的な思想体系を
形作ったと考えられる。
1935年、山本有三の「日本少国民文庫」編集主任に就任。
1937年には明治大学講師に就任。この年、『君たちはどう生きるか』を刊行。
1939年、明治大学教授に就任。戦時中も一貫して独自のヒューマニズム論を展開した。
1945年「世界」初代編集長に就任。いわゆる「戦後民主主義」の立場から論陣を張った。
1959年「安保批判の会」結成に参加し、1960年の安保闘争で活躍。
この間、1949年に岩波書店取締役、翌年岩波書店常務取締役、
1965年岩波書店編集顧問に就任した。
1981年、82歳で死去。 (以上Wikipediaより)
<この本との出会い>
喜多川泰さんの『上京物語』でご紹介されておりました。
喜多川さん素敵な本をありがとうございます。
<本文からご紹介>
まえがき
コペル君は中学二年生です。
本当の名は本田潤一、コペル君というのはあだ名です。年は十五ですが、
十五にしては小さい方で、実はコペル君も、かなりそれを気にしています。
毎学期のはじめ、体操の先生が全級を整列させて、帽子を取らせ、背の高さを見て整列の
順を変えるとき、コペル君はそっと砂利の上にかかとを乗せたり、出来るだけ首をのばしたりして、
なんとか順序を繰りあがろうと苦心するのですが、成功したためしがありません。
「ガッチン」というあだ名のある北見君と、いつも二位、三位を争って、お互いに抜いたり抜かれたり
しています。むろん、ビリからです。
ところが、成績の方からいうとその逆で、たいてい一番か二番、三番と落ちたことは
めったにありません。この方は、もちろん、ほんとうの成績順で数えてです。といって、コペル君は、
点取虫の勉強家というわけではなく、どうして、遊ぶことは人一倍好きな方です。野球では、
クラスの選手になっています。ちっちゃなコペル君が大きなグローブをはめて、二塁を守っている
のは、なかなか愛嬌があります。何しろ体が小さいので、打撃の方は強打者ではありません
けれど、でもバントがお得意で、おかげでいつも二番打者に据えられています。
この本は1937年に刊行されております。つまり驚きの70年前の作品なんですね~。
1937年という時代は、まさに軍国主義の真っただ中で、その後日本は戦争に突入する、
そんな言論統制というより言論の自由がなかった時代に、未来ある少年少女の為に、
書かれた作品なんですね~。
東京都が東京市と表現されているところなんかは、まさに時代を感じることができます。
でも、主人公のコペル君の体験や思いは、現代でも何も色あせることなくビンビン伝わります。
コペル君のあだ名のきっかけになった、ニュートンと林檎の話。コペル君の友人のお姉さんの
かつ子さんが語る、ナポレオンの話。そして何と言っても友人達との約束をやぶってしまい、
深く葛藤するコペル君の想い。どれもとても心に響く内容となっております。
ちょっと小学生には難しい内容もありますが、中学生のお子さんであればじっくり時間をかけて
読むことが出来るのではないでしょうか。きっとこの本がきっつかけで、いろいろな方向に
興味をしめしてくるのではないかと思います。
実際私もナポレオンやニュートンの話についてはとても興味が湧き、いろいろと調べてみました。
喜多川さんの「上京物語シリーズ」も何冊か読み進めて来ましたが、どれもこれも素敵で何かの
きっかけになる本ですね~。 改めて喜多川さんありがとうございます。
それは、人生をいかに生くべきかと問うとき、常にその問いが社会学的認識とは何かという問題と
切り離すことなく問わなければならぬ、というメッセージであった。
著者の没後追悼の意をこめて書かれた「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」を付載。
<著者のご紹介>
吉野源三郎(よしの げんざぶろう)
1899年東京都出身。父は株式取引所仲買人であった。
1912年、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。
1917年、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。
1918年、旧制第一高等学校に入学。
1922年、2留のすえ第一高等学校を卒業し、東京帝国大学経済学部に入学。
思索の中で哲学への思いが高じて文学部哲学科に転部した。
1925年、26歳で東京帝国大学文学部哲学科を卒業。思い立って陸軍に入隊する。
除隊後の1927年、東京大学図書館に就職。このころから政治に関心を持ち、
社会主義系の団体の事務所に出入りするようになる。
1931年に治安維持法事件で逮捕され、実際は違法行為などは行っていなかったが、
このとき抱いた軍国主義への不信感が、後年の反戦活動、理想主義的な思想体系を
形作ったと考えられる。
1935年、山本有三の「日本少国民文庫」編集主任に就任。
1937年には明治大学講師に就任。この年、『君たちはどう生きるか』を刊行。
1939年、明治大学教授に就任。戦時中も一貫して独自のヒューマニズム論を展開した。
1945年「世界」初代編集長に就任。いわゆる「戦後民主主義」の立場から論陣を張った。
1959年「安保批判の会」結成に参加し、1960年の安保闘争で活躍。
この間、1949年に岩波書店取締役、翌年岩波書店常務取締役、
1965年岩波書店編集顧問に就任した。
1981年、82歳で死去。 (以上Wikipediaより)
<この本との出会い>
喜多川泰さんの『上京物語』でご紹介されておりました。
喜多川さん素敵な本をありがとうございます。
<本文からご紹介>
まえがき
コペル君は中学二年生です。
本当の名は本田潤一、コペル君というのはあだ名です。年は十五ですが、
十五にしては小さい方で、実はコペル君も、かなりそれを気にしています。
毎学期のはじめ、体操の先生が全級を整列させて、帽子を取らせ、背の高さを見て整列の
順を変えるとき、コペル君はそっと砂利の上にかかとを乗せたり、出来るだけ首をのばしたりして、
なんとか順序を繰りあがろうと苦心するのですが、成功したためしがありません。
「ガッチン」というあだ名のある北見君と、いつも二位、三位を争って、お互いに抜いたり抜かれたり
しています。むろん、ビリからです。
ところが、成績の方からいうとその逆で、たいてい一番か二番、三番と落ちたことは
めったにありません。この方は、もちろん、ほんとうの成績順で数えてです。といって、コペル君は、
点取虫の勉強家というわけではなく、どうして、遊ぶことは人一倍好きな方です。野球では、
クラスの選手になっています。ちっちゃなコペル君が大きなグローブをはめて、二塁を守っている
のは、なかなか愛嬌があります。何しろ体が小さいので、打撃の方は強打者ではありません
けれど、でもバントがお得意で、おかげでいつも二番打者に据えられています。
この本は1937年に刊行されております。つまり驚きの70年前の作品なんですね~。
1937年という時代は、まさに軍国主義の真っただ中で、その後日本は戦争に突入する、
そんな言論統制というより言論の自由がなかった時代に、未来ある少年少女の為に、
書かれた作品なんですね~。
東京都が東京市と表現されているところなんかは、まさに時代を感じることができます。
でも、主人公のコペル君の体験や思いは、現代でも何も色あせることなくビンビン伝わります。
コペル君のあだ名のきっかけになった、ニュートンと林檎の話。コペル君の友人のお姉さんの
かつ子さんが語る、ナポレオンの話。そして何と言っても友人達との約束をやぶってしまい、
深く葛藤するコペル君の想い。どれもとても心に響く内容となっております。
ちょっと小学生には難しい内容もありますが、中学生のお子さんであればじっくり時間をかけて
読むことが出来るのではないでしょうか。きっとこの本がきっつかけで、いろいろな方向に
興味をしめしてくるのではないかと思います。
実際私もナポレオンやニュートンの話についてはとても興味が湧き、いろいろと調べてみました。
喜多川さんの「上京物語シリーズ」も何冊か読み進めて来ましたが、どれもこれも素敵で何かの
きっかけになる本ですね~。 改めて喜多川さんありがとうございます。
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